最近、現議長に「声が大きい」と注意され、発言を中止させられることが多くなった。
議会でパワハラ研修を受ける前までは「議員としての品位がない」とよく注意されてきた。
”普通”に考えれば、僕はどう考えても議長に嫌われている。
しかし、”好き”とか”嫌い”とかいう個人的な感情を議会の”裁き”において”発揮”してしまうのは、どう考えてもおかしい。権力の乱用だ。
しかし一体なぜ、自分はこんなにも市議会から嫌われてしまったのか?
一言でいえば、言ってはいけないとされることは案外正しく、僕は自分の目の前に起こっていることや自分で調べてわかったことを、正真正銘、正直に話しているだけなのだ。
議会という場は、閉鎖的で、慣例を何よりも大事にする世界。
僕が「慣例外」なのはわかる。しかし「慣例外」で嫌われてしまうのは、遺憾だし、相手の”度量”を疑ってしまう。
「流れる水は腐らず」
有名な諺だが、停滞せずに常に活発に動き続けるものには、沈滞や腐敗がないことの例えだ。
人間は常に変化を求め、行動していかなければならない。
実際、私たち日本人の価値観も時代と共に少しずつ移り変わりつつある。
しかし、私たち、東アジアの文化はとても保守的で、調和を重んじ、ヒエラルキーを重要視する傾向にある。また行動に移す前に、とても慎重になりやすい傾向をもっている。
東アジアは、西欧より内向的だと言える。
学校教育では、「あまり話すな」と私たち日本人は教えらてきた。
たくさん話したり、たくさん手を挙げるとトラブルメーカーだと思われてしまう。
「声がでかい」のもNGだ。
小学生時代、先生に「声が大きい」と注意されたことがある。
しかし、西欧は逆だ。
手を挙げた回数や質問の数で先生が評価をするのだ。
もちろん発言の声の大きさで注意されたことは一度もない。
西洋文化では、自分の強みを最大限に活かすことが推奨される。
東アジア文化では、自分の弱みを改善することが求められる。
さぁ、あたなはどちらの文化に近い価値観を持っているのか?
または、あなたはどちらの価値観の世界の方が居心地が良いと感じるのか?
僕は、0、100の問題ではなく、”いいとこ取り”ができたら良いと考えている。
もちろんそれをするには、両方の価値観を知らなければならないのだが、、、
これからの”多様性が求められる時代”において、”声が他人より大きい”で受け入れられないのは、おかしい。
第一、声が大きいことは、身長が高い、太っている、顔が怖いとかの身体的特徴の一つに過ぎないのではないか?
議長には、そんな度量の小さなことを考えているより、議会中に居眠りをしている議員をまずはきちんと注意してもらいたい。
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